JavaScript機能をONにしてください。 四国屈指の荘厳な大社「和霊神社の歴史」【宇和島市観光物産協会】
スペシャル企画
このページのホームからの位置はホーム > スペシャル企画 > 四国屈指の荘厳な大社「和霊神社の歴史」

ここから本文

vol.1 四国屈指の荘厳な大社 和霊神社の歴史 History of the Warei Shrine

第1幕(江戸時代):山家清兵衛公頼(やんべせえべえきんより)宇和島へ

時は元和元年(1615)、宇和島藩祖伊達秀宗が、宇和郡十万石に封じられ、宇和島に入った。その時、秀宗の父伊達政宗が、家臣の中でも力量手腕の優れた「山家清兵衛公頼」を総奉行として藩政を委託した。
公頼は藩の財政の立て直しに力を発揮し、宇和島藩は少しずつ豊かになっていくかのように思えた。

山家清兵衛邸宅跡
(丸之内和霊神社)

第2幕(江戸時代):大阪城石垣工事

しかし、元和5年(1619)、幕府より大阪城石垣工事の命が下った。工事費用は、課役と言って宇和島藩で全て負担することになる。ようやく、藩の財政が落ち着きかけた時であり、この出費は頭の痛いものだった。このことがきっかけで、大阪城修復を命じられた、桜田玄藩と山家清兵衛の各々のやり方が対立し、その結果、後に、宇和島伊達騒動と呼ばれる事件が起こるのであった。

丸之内和霊神社裏にある、4男美濃が投げ込まれたといわれる井戸。↑↓

第3幕(江戸時代):6月30日

元和6年(1620)、6月30日の夜、その事件は起きた。清兵衛を日頃から良く思っていない武士たちにより、まさしく今、暗殺が決行されようとしていた。これからの出来事を予感させるような蒸し暑い嵐の夜だった。

清兵衛は、日夜、このような事態が起きることを予想しており、この日も用心し、親子3人蚊帳の中で枕を並べて寝ていた。そこに踏み込んで来た暗殺者たち。清兵衛は我が子をかばうため反撃するが、暗殺者たちは、蚊帳の四隅を切り落とし、まるで、網にかけた獲物のごとく蚊帳の中でもがき苦しむ清兵衛を刺し殺したのであった。その時清兵衛、42歳の若さであった。

また、一緒に居た、次男、三男も惨殺された。奥女中と別室に寝ていた四男の美濃は、一説によると、難を逃れさせるために、隣の家に投げ込んだが、後難の火の粉が降り注ぐのを恐れた隣人が投げ返し、その時に井戸に落ちて命を落としたという説もある。しかし、この時には、後室・奥方・幼子は先に家から逃げており、この嵐の夜には難を逃れた。この嵐の夜には・・・。


山家清兵衛と3人の子供が眠る「和霊廟」

第4幕(江戸時代):初盆

清兵衛の命により、桧皮(ひのきばた)に逃れていた奥方らの耳に、この出来事がすぐさま入ってきた。悲しむ間もなく、後室、奥方、幼子は、仙台に逃れるため、とりあえず乳母の在所蕨生村(現在の松野町蕨生)に身を隠した。

時は経ち、同年7月13日、亡き主人と3人の子供の初盆を迎えた。奥方は、悩んだ末、参る人もないだろうと主人や3人の子供たちを哀れに思い、幼子を乳母に預け、後室とともに宇和島の正眼院金剛山の西の谷(現在の和霊廟)に参った。

清兵衛の墓は、うら盆ということもあり、生前、公を慕っていた百姓町民により、香が耐えなかった。奥方らは、その光景を見て涙しているところへ、幼子が追手によって殺害されたとの知らせが届いた。二人は悲しみにふける間もなく、すぐさま仙台へ旅立った。

次のページへ