郷土学習本
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清せい家け 吉きち次じ郎ろう 慶応2年(1866)~ 昭和9年(1934)井い関せき 邦くに三さぶ郎ろう 明治32年(1899)~ 昭和45年(1970)医者。昭和20年、三浦村に診しん療りょう所しょを開き、まだまだ行き届いていなかった辺地の医療りょう問題に取り組みました。また、図書館を建てるなど地域の教育文化の向上に努めました。もともとは学校の先生でしたが、政治家に転身。県会議員から町長、国会議員にも選ばれました。吉田ー宇和島間の鉄道開通に尽力、亡くなった後の昭和16年に開通しました。実業家。有名な農機具メーカー「井関農機」をつくりました。とても大変な農作業を少しでも楽にしようと、農機具の開発を通して、宇和島だけでなく日本の農家の助けとなりました。実業家。松竹梅というお酒で有名な「宝酒造」の社長として活躍。宇和島への思いがとても強い人で、公会堂建設には多額の寄付をし、市の文化向上に協力を惜しみませんでした。実業家。福ふく沢ざわ諭ゆ吉きちの教えを受けたのち、アメリカと貿易する仕事に就いて、渡と米べい回数なんと90回! 村井幼稚園の開設や旧吉田中学校開校(今の吉田高校)に尽力しました。郷土史家。宇和島伊達家が無料開設していた「伊達図書館」の初代館長。伊達家に伝わる古文書を数多く解読、宇和島藩の研究を進め、南予の歴史研究の先せん駆く者として活躍しました。大おおみや宮 庫くらきち吉 明治19年(1886)~ 昭和47年(1972)村むら井い 保やす固かた 嘉永7年(1854)~ 昭和11年(1936)兵ひょう頭どう 賢けん一いち 明治5年(1872)~ 昭和25年(1950)宇和島地区田た中なか 九きゅう信しん 明治17年(1884)~ 昭和50年(1975) 宇和島地区吉田地区吉田地区三間地区津島地区27宇宇和島の発展に尽じん力した人

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