郷土学習本
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85.宇和島伊達家の誕生どうして、宇和島に東北の伊達家が来たんだろう?昔の位の高かった人は家系を存続させるため、複数の女性をそばにおいていました。正式な妻として迎えた女性を正室、正室がいる中で迎えた女性を側室といいます 宇和島伊達家は、伊達秀ひで宗むね【天てん正しょう19年(1591)~明めい暦れき4年(1658)】を藩はん祖とする大名家です。秀宗は伊達政宗と側そく室しつ・新しん造ぞうの方との間に長男として誕生(幼名:兵へい五ご郎ろう)、岩出山(宮城県大崎市)で跡あと取りとして育てられますが、わずか4歳で天下人・豊臣秀吉へ人質として差し出されます。しかし、兵五郎は秀ひで頼より(幼名:拾丸)の遊び相手として大切に育てられ、6歳元服の折には、秀吉の一字をもらい、『秀宗』と名乗ることとなります。 秀吉没後、政宗は徳川についたため、秀宗は関せきヶが原はら合戦直前に監かん禁されますが、徳川方の勝利で危うく難を逃れます。その後の慶けい長ちょう7年(1602)9月、政宗は12歳の秀宗を家康にお目見えさせて、秀宗は徳川家の人質となるのです。そして慶長15年(1610)には、政宗の正せい室しつ愛めご姫ひめの子、虎とら菊きく丸まるが徳川秀ひで忠ただの一字をもらい、忠ただ宗むねと名乗り仙台伊達家の後継けい者となることが決まってしまいます。 慶長19年(1614)11月、家康が豊臣家を滅ぼすために大坂冬の陣を起こすと、政宗・秀宗父子は、1万人の兵を率いて徳川方に参戦。政宗が家康の側近へ働きかけをしたこともあって、その功績として、当時幕府が直接治めていた宇和郡10万石が秀宗に与えられます。 秀忠は伊達秀宗を国くに持もち大だい名みょう格かくとし、慶長20年(1615)3月18日、秀宗25歳のとき、「五十七騎」とともに板いた島じま丸まる串くし城(いまの宇和島城)に入城、これをもって宇和島伊達家が誕生するのです。 将軍家から10万石を与えられたので、宇和島伊達家は仙台伊達家の分家ではなく、宗そう家け(家いえ元もと)と支し家け(家いえ別わかれ)という血縁のみのつながりで、明治をむかえるまで9代に渡って宇和島を治めました。

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