ぶらり宇和島城下
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宇和島伊達家歴代藩主たち7代 伊だて達 宗むねただ紀寛政4年~明治22年 1792   1889-長寿大名- 6代村寿の長男。文政から天保期にかけて倹約を徹底し、財政・農政・軍事などの藩政改革を行い、弘化元年(1844)に家督を譲り、「春山」と号す。慶応2年(1866)天赦園が完成、隠居所とする。また能書家としても知られ、多くの作品を残す。写真 ((公財)宇和島伊達文化保存会)8代 伊だて達 宗むねなり城文政元年~明治25年 1818    1892-幕末の四賢侯- 幕臣山口直勝の二男。文政12年(1829)、7代宗紀の養子となるが、これは5代村候の子直清が山口氏の養子となり、その子が直勝であるという血縁によるもの。宗紀の改革を受けて高野長英、村田蔵六を来藩させ、積極的に富国強兵、殖産興業を推進した。英国外交官アーネスト・サトウの回顧録中に「大名階級の中でも一番の知恵者」と賞揚される。安政5年(1858)大老井伊直弼の圧力により41歳で隠居するも、その後も幕末の政局に活躍、福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、薩摩藩の島津久光と並び「幕末の四賢侯」と称される。明治政府では外交関連の高官を歴任、同4年(1871)清国に欽差全権大臣として赴き、日清修好条規の大任を果たす。写真 ((公財)宇和島伊達文化保存会)6代 伊だて達 村むらなが寿宝暦13年~天保7年 1763   1836-萩森騒動- 5代村候の四男。当代は享和、文化、文政期に属し、藩の財政も他藩同様に窮乏し、萩森騒動を生じた状態であった。一方、藩校の敷教館(後の明倫館)の教授を充実させ、又藩医を蘭学者 大槻玄沢、蘭方医 伊藤玄朴のもとに入門させ最先端の医学を習得させるなど、文教方面に功績をのこす。9代 伊だて達 宗むね徳え天保元年~明治38年 1830    1905-最後の藩主- 7代宗紀の三男。天保8年(1837)宗城の養子となる。宗城隠居後、9代藩主となり、宗城が後顧の憂いなく中央の政局で活動できるよう、宗城を補佐し内を守った。明治24年(1891)、宗城の活躍の功績によって侯爵を授与される。写真 ((公財)宇和島伊達文化保存会)村寿直筆の書 ((公財)宇和島伊達文化保存会)肖像画 ((公財)宇和島伊達文化保存会) 襲封32歳卒去76歳 襲封33歳卒去100歳 襲封27歳卒去75歳 襲封29歳卒去76歳 また仙台伊達家との本末の争いを起こし、閣老の調停にて対等の別家たることを認めさせた。金金龍龍※年齢は官年(幕府に届けた年齢) 宇和島伊達家歴代藩主たち17

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