JavaScript機能をONにしてください。 牛鬼の歴史と仕組み(牛鬼の歴史)【宇和島市観光物産協会】
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vol.2 牛鬼の歴史と仕組み History and Inside of the USHIONI

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昭和初期の牛鬼練り

頼山陽(らいさんよう)著「日本外史」によると、「豊臣秀吉が加藤清正に朝鮮出兵を命じた文禄の役(文禄元年・1592年)に武将加藤清正が韓国の慶尚道・晋州にある、晋州城を攻めるときに、亀甲車を造って城の上から射おろす矢や、投げつける石を防いだのが始まり」と言われている。亀甲車とは、堅板で箱の形を作り、それを牛革で包んで、牛の生首を棒に刺しその先に掲げ、中に兵士が入って攻め戦ったものと言い伝えられている。

文禄2年6月に、それぞれの大将は、兵を合わせ、晋州城をとり囲んだ。清正(加藤清正)の兵士は城の周囲を埋めつくし、竹で作った楯をかざして応戦したが、城の上から射おろされる矢や、投げつけられる石は、雨が降り注ぐようであった。清正は、そこで、亀甲車というものを造り、その車に兵士を乗せて、城の下にせまり城の根元に穴を掘った。すると、城の高殿(こうでん)や、物見やぐらが崩れ落ちた。清正は、黒田長政とともに城に攻め入り、各大将もこれに続いた。


吉田町の牛鬼
城の守将(しゅしょう)・徐禮元(じょれいげん)、金千鎰(きんせんいつ)の両将軍と激しく交戦し城を陥落した。
この武勇伝を、藤堂高虎が宇和島に伝えた。その後、天保11年頃に、宮の下村(現北宇和郡三間町)または、成妙村(なるたえむら)の庄屋備忘録(庄屋文書)に牛鬼のことが触れられていた。(残念ながら、現在のところこの庄屋文書は残っていない。)この朝鮮出兵の際に使われた亀甲車の話が、宇和島やその周辺に、牛鬼というものが出来た起源であろうといわれている。
来村の保田に牛鬼の付属品を入れていた箱があり、この箱には弘化2年(1845)の年号が入っていた。明治になって、保田の牛鬼を宇和島の山際が譲り受け、それを新田町にもって来たといい伝えられている。
また、宇和島でも有名な丸穂村の牛鬼は、江戸時代末期頃から、お祭りで参勤交代の大名行列を模した奴踊りに「お槍ふり」をしていたが、明治末期頃から牛鬼が登場し、今日まで受け継がれている。

「吉田祭絵巻」より
形の資料として残っているもので一番古いのは、江戸時代末期頃の祭りの絵巻に牛鬼が出ている。この絵巻は、北宇和郡吉田町の祭礼絵巻である。少し宇和島の牛鬼と形が違うが、今でも吉田町の牛鬼は、この形で継承されている。

「かいふき」
また、南宇和郡御荘町・城辺町・一本松町などの牛鬼には「とろりよ」という練り歌が唄われている。
どの地域の牛鬼にも共通するのが、「かいふき」である。竹の筒に穴を開け、ほら貝のように「ブー」と大勢の子どもたちが吹きながら牛鬼に続いて練り歩く。これは加藤清正が、晋州城に亀甲車で攻め入る時に、この笛を吹き鳴らしたと言い伝えられ、それが、そのままお祭りの形になっている。


牛鬼はこのように、愛媛県の南予地方に広く分布しており、それが、すべて藤堂高虎によって伝えられたのか、藤堂高虎の話が少しずつ分布し、各地でその武勇をたたえ広まったのかは定かではない。ちなみに宇和島の牛鬼の歴史はおよそ200年と言われている。
現在の宇和島の牛鬼のように、胴体に赤い布(きれ)をかぶせる様になったのは、昭和の初めからだと言われている。
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