JavaScript機能をONにしてください。 日本一を誇る三づくめ「和霊神社」【宇和島市観光物産協会】
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vol.1 日本一を誇る三づくめ〜和霊神社 Three No.1 Japan of the Warei Shrine


山家清兵衛と3人の子供が眠る「和霊廟」

第4幕(江戸時代):初盆

清兵衛の命により、桧皮(ひのきばた)に逃れていた奥方らの耳に、この出来事がすぐさま入ってきた。悲しむ間もなく、後室、奥方、幼子は、仙台に逃れるため、とりあえず乳母の在所蕨生村(現在の松野町蕨生)に身を隠した。

時は経ち、同年7月13日、亡き主人と3人の子供の初盆を迎えた。奥方は、悩んだ末、参る人もないだろうと主人や3人の子供たちを哀れに思い、幼子を乳母に預け、後室とともに宇和島の正眼院金剛山の西の谷(現在の和霊廟)に参った。

清兵衛の墓は、うら盆ということもあり、生前、公を慕っていた百姓町民により、香が耐えなかった。奥方らは、その光景を見て涙しているところへ、幼子が追手によって殺害されたとの知らせが届いた。二人は悲しみにふける間もなく、すぐさま仙台へ旅立った。


法円寺の高の墓
第5幕(江戸時代):六反地の山家清兵衛室の墓

高知県窪川町六反地において、清兵衛の妻「高」が客死した。その亡骸(なきがら)を六反地に葬った。

その後、明治に入り、宇和島の法円寺に分骨し、埋葬した。


和霊神社(現在)階段


和霊神社(現在)本殿
第6幕(江戸時代):和霊神社になるまで

本社ははじめ、下村の森安に児玉明神として祀られ、更に承応2年(1653)桧皮杜に山頼和霊神社として還宮され、京都の吉田家より奉幣使を迎えて、神祇勧請(かんじょう)の儀式を行い、次に明暦2〜3年(1656〜57)には、向山に移し、これより更に、享保16年(1731)現在地の鎌屋城跡に5代藩主、村候により本造り神社が建立され、今日に至っており、又村候は下記の詠歌を送っている。


奉納 伊達村候
あふぐぞよ、この松山に宮居して
ゆくすゑ守れ やまより(山頼)の神


本尊はもちろん山家清兵衛であり、他に子息、塩屋匠一家を祀っている。

その後和霊神社は、空襲により焼失しましたが、昭和32年に見事再建されました。

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