JavaScript機能をONにしてください。 日本一を誇る三づくめ「和霊神社」【宇和島市観光物産協会】
スペシャル企画
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vol.1 日本一を誇る三づくめ〜和霊神社 Three No.1 Japan of the Warei Shrine

四国でも大きな祭りのひとつとして知られている和霊大祭で有名な"和霊神社"には、
こんな日本一があるのです。

日本一の大鳥居
・・・ミカゲ石づくり 昭和13年建立
〔御利益/大漁祈願・武運長久・五穀豊穣・商売繁昌〕

日本一の於多福面
・・・幸せをよぶ福の神
〔御利益/商売繁昌・子宝授ケ・学業成就・縁結び〕

日本一の鼻高面
・・・日本一のよい男、また、男の象徴である最高履の人
〔御利益/無病息災・学業成就・縁結び〕

明治期からこの地方に伝わる、子供たちの"亥ノ子"歌の一節
「和霊様の!和霊様の!和霊様御門の両脇に
  於多福面や鼻高や 外にも十二のエトがある。 ウェーイ ウェイッ!」

歌にみる両お面は、先の太平洋戦争で神社諸共焼失したが、現在見事に復元され、
五代藩主村候建立の随神門の両脇に取付けられており、ユニークでしかも荘厳な顔で参拝者を迎えています。

第1幕(江戸時代):山家清兵衛公頼(やんべせえべえきんより)宇和島へ
時は元和元年(1615)、宇和島藩祖伊達秀宗が、宇和郡十万石に封じられ、宇和島に入った。その時、秀宗の父伊達政宗が、家臣の中でも力量手腕の優れた「山家清兵衛公頼」を総奉行として藩政を委託した。
公頼は藩の財政の立て直しに力を発揮し、宇和島藩は少しずつ豊かになっていくかのように思えた。

山家清兵衛邸宅跡
(丸之内和霊神社)

第2幕(江戸時代):大阪城石垣工事
しかし、元和5年(1619)、幕府より大阪城石垣工事の命が下った。工事費用は、課役と言って宇和島藩で全て負担することになる。ようやく、藩の財政が落ち着きかけた時であり、この出費は頭の痛いものだった。このことがきっかけで、大阪城修復を命じられた、桜田玄藩と山家清兵衛の各々のやり方が対立し、その結果、後に、宇和島伊達騒動と呼ばれる事件が起こるのであった。

丸之内和霊神社裏にある、4男美濃が投げ込まれたといわれる井戸。↑↓

第3幕(江戸時代):6月30日
元和6年(1620)、6月30日の夜、その事件は起きた。清兵衛を日頃から良く思っていない武士たちにより、まさしく今、暗殺が決行されようとしていた。これからの出来事を予感させるような蒸し暑い嵐の夜だった。
清兵衛は、日夜、このような事態が起きることを予想しており、この日も用心し、親子3人蚊帳の中で枕を並べて寝ていた。そこに踏み込んで来た暗殺者たち。清兵衛は我が子をかばうため反撃するが、暗殺者たちは、蚊帳の四隅を切り落とし、まるで、網にかけた獲物のごとく蚊帳の中でもがき苦しむ清兵衛を刺し殺したのであった。その時清兵衛、42歳の若さであった。
また、一緒に居た、次男、三男も惨殺された。奥女中と別室に寝ていた四男の美濃は、一説によると、難を逃れさせるために、隣の家に投げ込んだが、後難の火の粉が降り注ぐのを恐れた隣人が投げ返し、その時に井戸に落ちて命を落としたという説もある。しかし、この時には、後室・奥方・幼子は先に家から逃げており、この嵐の夜には難を逃れた。この嵐の夜には・・・。
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