郷土学習本
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106.宇和島が都市に大変身!     565632037856日振島西予市鬼北町松野町高知県四万十市高知県宿毛市愛南町御五神島戸島竹ヶ島宇和島吉 田津 島三 間051015kmN朝鮮侵略の拠点として宇和島の中心市街地が、今のような西南四国地域で一番のおまち444となったのは、安土桃山時代の頃からなんです。それまではどちらかというと、田舎まちだったんです 戦国時代ごろまで、宇和郡の中心は、平地の多い西予市宇和町でした。豊臣秀吉の2回目の朝鮮侵略にあわせて、宇和郡の戦力を送り出すための拠きょ点として、宇和島に最先端の石作りの水城が築かれることになります。これを秀吉に任されたのが、藤とう堂どう高たか虎とらという武将です。彼は慶けい長ちょう元年(1596)から6年の年月をかけて、お城とその周りに家臣や町人が住む町を整備していきました。土作りの城しか見たことのなかった宇和島の人たちはさぞびっくりしたことでしょう。 機械もない時代に川を付け替えたり、埋め立てしたりと大変な工事だったはずです。この頃はたくさんの物資を運ぶ一番の方法が船だったので、水運に便利な所に拠点を構えることが重要だったのです。 そして高虎が作り上げた城下町を伊達家が引き継ぎ、さらに町を広げ、伊達10万石の城下町へと発展させていきました。今のお城の姿からこんな姿はとても想像ができませんね。江戸時代になってからの参勤交代、宇和島伊達家は船を利用、今の金額で数億円かかったといわれます宇和島伊達家が誕生する前は、3人の武将が宇和島を治めました辰たつ野の川戦国時代、宇和島城は板いた島じま丸まる串くし城という名前で、また今のお城山周辺は板いた島じま郷ごうとよばれる地区でした藤堂高虎は家康にも仕えて、大坂城や江戸城の築城をまかされるほどお城作りが得意な人でした

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